「ジョゼと虎と魚たち」2012/02/20 00:39

 女たちの、男との出会いと別れを描く、田辺聖子の短編集。
 みんな、関西の女たちなんですよね。
 表題作は、映画化されてしかも「原作より面白い」という異例の評価を得た佳作でした。
 主人公の「ジョゼ」のキャラクターが、他の八編に比べて異色に思えます。脳性麻痺(疑)で足が悪く、独特の美意識っていうか哲学を持っている。そんな彼女と、彼女を助ける好青年との関係が、どこか病的なエロティシズムを漂わせて描かれるのですが、原作ではぼんやりと示唆されていた「その後」を、映画ではバシっと観客にたたきつけています。
 その他の作品は、
「お茶が熱くて飲めません」
 別れた男と、七年ぶりに会うことになったあぐり。かつてその男は良くも悪くも天然な無邪気さがあったのに、倒産やら離婚やらを経て、間の抜けたままガツガツしたオッサンになってしまって興ざめしてしまう。
「うすうす知っていた」
 夢見がちっていうか、妄想壁のある梢。ぼんやりと、ロマンティックな結婚に憧れてはいるものの、妄想するばっかりで現実問題として具体的なことは何にもできない動けない。
「恋の棺」
 別れた旦那から「二重人格」と言われたことのある宇禰。優しさと、冷たさの両方を使い分けるのはまあ、わりと普通の話なんですが、彼女の場合はそれが高じて「二重」であることに優越感と快楽を覚えるまでになってしまって。
「それだけのこと」
 ロールプレイング的な結婚生活になんか物足りない思いをしていたヒロインは、一緒にいて素でいられる堀さんのことが好きになっていく。明らかに両思いなのに、でも堀さんはジョークに紛らわせてしまって「それだけのこと」以上にはならない。
「荷造りはもうすませて」
 えり子は秀夫との甘美な夫婦生活に満足しているはずなのだが、秀夫が実家(養母と、前妻と、前妻との間の子がいる)の問題で苦労しているのを見て複雑な気持ちになる。そんな苦労はしたくないけど、なんか感じる劣等感。
「いけどられて」
 夫がよその女に子供こさえて、とうとう出ていく日。なのに梨枝がやたらと寛大な態度をとれるのは、なんの未練も執着もなく、放たれているから。
「男たちはマフィンが嫌い」
 マフィンのように見ばがよいので、自己満足できてしまう。しかしミミは、そんな薄っぺらくて実のない男関係にとうとう嫌気がさしてしまった。
「雪の降るまで」
 傍から見れば地味で、結婚もせずに華のない人生を送っているような中年女性。しかし以和子は、小金も溜めていれば、恋人と楽しい時間もすごして、結構幸せに年齢を重ねている。

「サラサーテの盤」2012/02/25 22:14

 世界文学遺産、として、様々な作品を紹介していく。
 日曜の午前10時から、作家の小川洋子のラジオ番組を聴きながら、洗い物やら部屋掃除やらをするのが習慣になっています。
 明日はひな祭り前ということで、「長靴下のピッピ」。
 世界一強い女の子。子供の頃、楽しく読んでた本です。

 小川洋子大絶賛だった内田百閒(同郷なんだそうです)、なんですが、ラジオで聞いた時には「サラサーテの晩」だとばかり思っていました。
 死んだ友人の後妻が、友人から借りたままになっていた品を、あれやこれや返してもらいにやってくる。という、それだけのストーリーなんですが。
 サラサーテさんとはヴァイオリニストで、彼の演奏するチゴイネルワイゼンのレコードには、彼自身の声だと噂される、人の声が録音されてしまっている。
 これは実在するレコードで、ラジオでちゃんとその「盤」をかけてくれました。
 人の声っぽいものは確かに聞き取れるのですが、何を言っているのかは分からない。
 しかし、友人の後妻は、その声に対してブツブツと何か返事してるんですよ。
 そんな感じの、なんか微妙に不気味で不思議な感じの短編集です。
 冒頭にある「東京日記」では、堀から巨大ウナギが現れるとか、富士山が噴火してたりとか、飯屋の客がみんな服着た動物だったりとか。
 面白いような、ワケわかんないような。
 解説で三島由紀夫が大絶賛していた「柳検校の小閑」は、ちょっと趣が異なっていて、目の見えない人の物の感じ方捉え方が、繊細に描かれていて、なんだか清廉な感じでした。

「共喰い」2012/02/28 01:08

 作品内容よりも作者のパーソナリティーが受けて?大いに売れているそうです。
 で、昨日図書館に行ったときに、ちょいと読んでみました。
 ……食事前に読むべきでは、なかったかなあ。
 芥川賞選考委員を唸らせた、濃密な文章は、さすがなもの、なんですが。
 密度が濃すぎて、気持ち悪い。というか、ねっちりとしたコダワリのある描写が連なっている割に、なんか現実味が感じられなくて、前日まで読んでいた内田百閒の幻想小説の延長のような、グロテスクな不思議の国のような。
 舞台は昭和の末の「川辺」の町。川は下水が流れ込んでいて悪臭がして、「女の割れ目」に例えられている。
 そこから離れられない父と子。主人公の少年は17歳の、狂おしいほどヤリたい盛りなお年頃なんですが、最中に女に暴力を振るうとコトにとてつもない快感を覚えるという父親の性癖を受け継いでしまって、不本意極まりない、情けないけど止められない。彼女ともうまくいかなくなってしまいます(まあ当然ですが)。
 男性なら、そういう悩ましい感覚にシンパシーを持てるのかもしれませんが、どうにも、私から見たら「嫌ならやらんかったらええやん!」と身もフタもない感想になってしまうんですよねえ。先に述べたような現実味の感じられない描写っていうのも、そういう自己が完成されていない未熟でグラグラしたガキの目線で語られているからなんでしょうかね。
 それに比べて、職業不明な(この辺も、このお話が寓話っぽく感じられる要因)親父さんの方は、もう自分が変態であることを開き直って受け入れていて、さらなる非道へと突き進んでしまいます。
 作品タイトルの由来は、この親父さんが、汚水の流れる川で採ったウナギを超ご満悦で食べている(でも全然美味しそうには描写されてなく、逆に気持ち悪い)ところからきているのだと思われます。
 こうした男たちには共感しづらいのですが、女たちは「母は強し」ってとこを見せてくれます。
 少年のお母ちゃんは戦争のときに右手を失くしてしまっていて、苦労して、強く生きた人。だからこそ、女を殴るひどいヤツなのに、自分を女として妻にしてくれて、失くした右手を補う義手を与えてくれた男を、憎みながらも情を捨てきれなかったのだと思います。
 しかし、自分ではなく、自分の息子が酷いことになってしまっているとなると!
 男性作家でありながらこういう母親を描けるって、おそらくは、作者のお母上が大変肝の座ったお人なんでしょうねえ。