「壁」2025/08/31 17:10

安部公房の、芥川賞受賞作。三部構成の、最後の「赤い繭」に描かれる短編が初出S25年で、それを膨らませた感じで翌年に発表されたのが第一部の「S.カルマ氏の犯罪」、第二部の「バベルの塔の狸」
主人公達は、名前を無くしたり影を取られたりして、人権も居場所もなく状況に流されていく。殺伐として、なんだか可哀想になってくるのですが、悲壮な感じを強調されているわけではない。
乾いた曠野と不条理こそが、世の中の本質なのか。何でもあり、グロテスクでルール無用の世界を、ラクダに乗って冒険する。。

「ハンチバック」2023/12/03 21:42

導入部は苦手、最後の締めも唐突で置いてきぼり感が残る。
でも、本筋はとても面白かった。
社会学からネットエロ小説まで語れるインテリ系重度障害者。親から受け継いだ莫大な財産も信頼できるヘルパーさんもいる。充足しているようで、でも介助無しでお風呂には入れないしちょっとしたアクシデントでも死にかける。
主人公・釈華の表の顔は温和で善良な障害者、裏の本音は捻れて屈折して知識人っぽい難しい単語を使いたがる皮肉屋。
不平不満愚痴が中心、とも言えるだろうか。共感は薄い、でも不快感も薄い。
彼女の言葉に説得力とエネルギー、そしてユーモアも漂う。力強い弱者だ。
著者の市川沙央さんは私と同年代の中年女性。かつてコバルトを愛読していた読書好きの少女だったと思うと、なんとなく、趣味の方向性が理解できる気もする。

「荒地の家族」2023/07/16 23:01

地面が動く、などの表現が、結構好き。
同じく23年上半期に芥川賞受賞した「この世の喜びよ」とは、うって変わって、苦しみに満ちている。著者の佐藤厚志氏は本業が仙台の書店員、あの震災に関する現地の人による描写はさすがに重みを感じました。
話は、暗い。死のイメージが随所にちらつき、主人公の植木屋、坂井祐治の自己肯定感の低いこと。震災で奥さんと商売道具と故郷の風景を失い、その後も、色々上手くいかない。淡々とした文章で綴られる、荒涼とした心情、喪失感、虚無感、徒労感。
彼の母親や息子は、今現在の現実の上をしっかり踏みしめている感じなのに、主人公は背中にべっとりと過去の亡霊を張り付かせている。
もちろん、現在、というのは過去から切り離すことはできないし、未来までつながっていくものではあるのだけど。

「この世の喜びを」2023/07/15 23:31

著者・井戸側射子氏、元は詩人で国語教師という経歴に、納得です。文体は二人称!単語は平易だけど独特な言い回し、現在進行形と過去回想が同階層に入り交じる表現。
読みにくい、自分、苦手なタイプの文章です。主人公が女子高生と接触するまで、ショッピングセンターの描写が単調に続くのがキツかった。
主人公・穂賀さんが勤める、どこにでもありそうな商業施設内での、多様な人々の邂逅。彼女は、何を見ても感じても、娘の思い出と結びつける。もう社会人になる娘たちを、とても愛しているのだろうな、と思うけど、あんまり仲良しな感じじゃないっていうか、愛情が通じてない感じ。
彼女自身の娘時代の思い出も、ふわふわと浮かび上がる。
違うんだよ、若さは体の中にずっと、降り積もっていってるの、何かが重く重なってくるから、もう見えなくて(後略)
作中の舞台も、出来事も、ヒロインの感情も、起伏が乏しい。お話としては退屈なものですが、穂賀さんが相手に伝えたいモノはその平凡さの中にあり、この世の喜びを感じている。

「おいしいごはんが食べられますように」2023/06/03 22:45

最初から結末の話ですが、ちょっと拍子抜けでした。
みんなから侮られながらもいつも笑顔で正しい意見と立場で、不得手なことは避けていく芦川さんが、最後までそのペースを崩さず望みの居場所を手に入れる。
行間から吹き出す憎しみや、美味しいはずのモノを食す描写の不快さから、逆転の展開があるのかと、期待していたのですが。著者・高瀬準子さんの職場に、こういう感じの人がいる(もしくは、いた)のでしょうね。芦川さんの内面描写も読みたい気もしましたが。
しかし、それ以上に気になったのは、彼女に対する抵抗勢力の感覚。普通に、手料理好きじゃないって、言えば良いのに。でも、単純な嫌い、でもなさそうで。
自分の本当に好きなものを、どれだけ選べているだろう。
自分が本当にしたいことを、どれだけやれているだろう。
自分が本当に感じていることを、どれだけ言葉にできているだろう。
自分が本心から望んでいること以外を、正しいからとか世の中そういうものだからとか空気を読んでとか相手に合わせてとかコンプライアンスとか義務感とかで、押しつけられ受け入れざるを得ない。ふざんけんな。
と、いう鬱屈が「食」に集約され、主人公・二谷の矛盾に満ちた過剰反応になっているのかなあ、なんて、思いました。
職場内三角関係の形を借りた、価値観のぶつかり合い。

「ブラックボックス」2022/07/25 20:47

元自衛官作家・砂川文治氏の芥川受賞作は、本当に、この作品が賞を得ること大いに納得な、ズシリとした力強さがありました。ウーバー配達員とかコロナとか、今現在的要素を使いながらも、芯にあるものも表現も、古典的で硬派、正に本格派文学です。
しかし、読んでいて辛い。
たとえば「コンビニ人間」の女主人公も、ちゃんと普通にしなければと思いながら根本的に外れてしまうタイプの人でしたが描かれ方がユーモラス。しかし「ブラックボックス」は、重く閉塞感に満ちています。主人公・サクマは、根は悪い人間ではないのですが(暴力は良くないけど、確かにムカつく状況)、<安定するために堪える>ことができない。
この日常の果てにある将来を思うと不安なので目の前のタスクをこなすことに集中する心理が、詳細な自転車走行描写とリンクして重みを増す。
<普通の社会>では生きづらい若者の転落人生。
つまらない日々の繰り返しに思えても、その中から何かを得たり変化したりしているのだ。
最後に、ようやく、閉塞感にほんの少しの風穴を穿つ。

「彼岸花が咲く島」2022/03/02 00:04

謎の彼岸花が年中咲き狂う、沖縄っぽい島に、記憶の無い白ワンピースの少女が流れ着く。
最初の2、3行で「これはラノベっぽい」と分かる文章・文体。著者・李琴峰さんのインタビュー記事によれば、典型的なアニメやポケモンからの日本語入門者だ。
芥川賞同時受賞した「貝に続く場所にて」とは実に対照的な作風で、でも、「境界線を無くす」イメージは共通する。
島で使用される言語は、中国語と日本語が混じりあったような「ニホン語」で、記憶喪失のヒロインが話すのは和語に時々英単語が混じる「ひのもとことば」。最初は読みにくい、でもだんだん馴染んでくる。
まったくの偶然でしょうが、ビッグタイトル期待で最近話題の映画「ドライブ・マイ・カー」も異言語交流が特徴的でした。流暢な日本語ならば通じ合えるってワケではないのだ。
登場人物たちの心情に、思想に、境遇に、思いを寄せることができれば、なじみのないごちゃ混ぜ言葉の会話も、それほど読む障害にはならないのだから。
やろうと思えばいくらでも欠点を挙げられる、寓話的作品。でも、少年少女たちの暮らしの営みや、交流が、清々しくてかわいらしい。

「貝に続く場所にて」2022/02/27 16:08

主人公は著者の石沢麻依さんと同様西洋美術史の研究者で、最初の2、3行で「これはキツイ、とっつきにくい」と分かる文章・文体。
舞台は津波に襲われた東北とコロナに襲われたドイツのゲッティンゲンという、重さ・閉塞感。
人の記憶と、記憶を刻まれた物があるならば、時間や空間の隔てを飛び越え、交流し対面できる。本来この時代のゲッティンゲンには存在しないハズの何かが、幽霊となって混じりあう。
テーマや世界観自体は割と好みで、しかし決定的に読みにくくて疲れる作品でした。色々な要素に意味を込めた、企みに満ちた表現なんだろうな、とは思うのだけれど。

「背高泡立草」2021/01/30 12:25

私が個人的にぼんやりと抱いている世界観がある。世界は情報でできている。それは大別して自分が認識している情報と、認識していない情報があり、後者の分量が圧倒的に多い。そして両者は不可分である。
古川真人氏の受賞作は、時間と個人の枠を超えてこの両者を同時並列させている感じか。
誰も使っていない納屋の草刈りのために、血縁者たちが島に戻ってくる。草刈りミッションの合間に、一族の過去にまつわる、というか掠めるって感じのエピソードが挟み込まれる構成。
関係性が薄いようでいて、でもなんか濃く感じてしまうのは、つながりがあるのは確かだから。九州の方言も効いている(でも読みにくい)。
幾らでも茂ってくるのに、刈り取らねばならない雑草のように。理由があるようなないような、問答無用の関係性。

「破局」2020/12/27 23:01

文芸春秋で芥川賞作品を読むと、選評がついてくるのがいい。
一人称記述での、主人公の細かい観察力が気になったのですが、あの他者描写の詳細さ、陽介君の他人の視線を気にする性質の、裏返しなんか。なるほどなあ。
彼は食欲性欲モリモリで筋トレに励み就活に勤しみ、女性に優しくマナーと社会常識を重んじる。そうやって強固な外壁を作り上げていながら、芯の部分はプルプルプリンの如くで、タチ悪い女達に振り回されグスグスに崩されてしまうのです。
最後の破局を幽霊のせいみたいにするのは蛇足な気もしたけど。
形から入るやり方もアリでしょうが、健康な肉体に健全な魂が宿る、とは限らない。昨年のラグビー熱や近年の筋トレ至上主義をあざ笑うような、著者・遠野遥氏の性根の悪さが素晴らしい。読み方次第で喜劇とも悲劇とも受け取れる作品。
主人公・陽介君のお友達が、彼とは正反対の、己の心と思考のみに忠実に動いて周囲から浮くタイプの人。しかし就職活動を通して、友人は外部刺激によって己を変化させ成長させることを学び始めた。彼の今後の方が、主人公以上に気になってくる。