瀬戸内国際芸術祭20132013/11/04 00:00

木曜金曜二日間、瀬戸内海へ行ってきました。
 バスで高松市へ行き、一日目は女木島男木島の半日コース、二日目は一番人気の直島で約八時間滞在という、わりとオーソドックスなパターンです。
 お宿は高松駅近くのホテルで、一日目の夜はそこで土産物屋で買ったレモンの砂糖漬けを齧りつつTVで日本シリーズを見ていました。こういうのは早めに計画立てて予約取るほうがお安くなるのでしょうが、例によって行き当たりばったりです。だってちゃんとお天気の良い日に行きたいもん。フェリーから見る島々はちょっと靄がかかっていましたが、海も空もきれいでした。
会場となる島では当日に宿を取るのは難しいと言われましたが、直島では素泊まり一泊3-4千円くらいのプチ民宿って感じのところがあちこちあったので、平日に一人分の寝床を確保するだけなら、どこかに潜り込めたように思います。時間と経費の節約になります。日本シリーズ観戦ができたかは分かりませんが。
作品鑑賞パスポート(4500円)も購入しました。各展示場に行くたびに小銭をジャラジャラ用意しなくていいし、スタンプラリー感覚で楽しいです。一日だけの鑑賞では、元を取るのは難しいかもしれません。
きちんと下調べして自分の見たい作品を厳選するならパスポートは不要かもしれませんが、複数の島をめぐるなら、船賃を調べておくべきだと思いました。フェリーは電車賃並ですが、高速船はその2.5倍くらいになります。二日目は直島か犬島(妹尾和代の建築に興味があって。いま新国立競技場のデザインでもめていますが、彼女たちはどう思っているのだろう?)か迷ったのですが、船賃が予算オーバーなので断念したぐらいです。4千円で二日間乗り放題パスがあるのですが、高松から犬島往復だけで元が取れるくらいです。
島は、結構歩き回ります。軽く山登りです。
直島ではレンタルサイクル(500円)を利用しました。バスは混むし時刻を気にするのが嫌だったのですが、バス料金は安いし自転車の上り坂はしんどいし(下りは爽快ですが)、なによりもベネッセ方面にはチャリ侵入できないのが計算違いでした。
直島で最初に行った地中美術館(鑑賞パスがあっても入場料千円必要な人気スポット。モネの「睡蓮」が一番美しく見える構造を誇り、周囲のお庭もモネっぽい)では整理券が配られ、中に入ってからも部屋に入る人数制限があって、結構待ち時間がありました。整理券の時刻まで一時間以上あったので、その間にリーウーファン美術館へ。10時開館の予定を、10分ほど早く開けてもらえたので、まだ空いているうちにゆっくり(それでも、15分間くらいで観て回れます)できました。海へ続くお庭も広々していて、海岸沿いをウロウロしていました。
本村の「家プロジェクト」は「南寺」だけは整理券が必要で、あとは大体待ち時間なしでした。「銀座」は前日までに予約が必要とのことで、当然そんなの調べていなくて見られませんでした。
宮ノ浦にもどり、混雑してくる前(みんな5時のフェリーが出る直前にひとっ風呂浴びようとするから、その少し前)に「I❤湯」で一汗流しました。
総合ガイドブックも買わず、作品の下調べもほとんどしていなかったので、これからネットで、気になった作品の解説を見てみようと思います。

「アルジャーノンに花束を」2013/11/05 22:55

 最初に中編SF小説として発表されたのが1959年、もはや古典といってもいい、ダニエル・キイスの名作ですが、私は随分長いこと、大きな誤解をしていました。
 本書の主人公の名前はアルジャーノンじゃないんです、チャーリー君です。
 アルジャーノンは、チャーリーと同じ手術を受けた、賢いネズミ君でした。
 知能指数は低いけど気の良い33歳のチャーリーは、もっと賢くなればみんなの話の仲間に入れるだろう、と思って、実験的な手術を受けます。
 ところが、手術でオツムがよくなってくるにつれ、友達だと思っていた人たちが実は自分をバカにして笑っていたことや、両親が自分のことについてケンカをしていたことなどを、理解してしまうのです。
 そして、彼はやがてパン屋の同僚よりも大学のエラそげな先生たちよりも賢くなり、数か国語を操りあらゆる分野の専門知識を得るまでになって、・・・・・・彼は以前よりもずっとずっと、孤独になっていくのです。
 とっても、切ないです。
 もともと中編小説だったのを1966年に長編に書き直して(そしてネビュラ賞を取ったり映画化されたり)あるのですが、途中でちょっとダレてくるので、中編のままの方が良かったんじゃないかな、とも思えてきます。ストーリー自体は、シンプルですから。
 しかし、最後の一文は秀逸です。
 しんみりさせて。
 同時に、チャーリーのことをとても愛らしく感じさせる終わらせ方でした。

高松城2013/11/07 11:59

 先日瀬戸芸に行った際、帰りのバスまで時間があったので、最後に高松城跡(玉藻公園)の夜間無料開放を覗いてきました。
 城跡なので中は広く、その割に入場者が少なくて、たまに人とすれ違うとちょっとホッとするくらいです。
 菊花展や新作石燈籠の展示もあり(けっこう面白かったです)、小道にはもちろん明かりが燈っているのですが、進入禁止の石が置かれたその先は、人工の光の届かない暗闇が静かな塊となっています。
 幽玄。

「死霊館」2013/11/07 12:00

 THE CONJURING
 ジェームズ・ワン監督による、正統派ゴシックホラー。怖いです。ホラー映画の怖い要素を目いっぱい詰め込んでいます。
 呪われた家に越してきてしまった一家を救うため、心霊研究科と透視能力者の夫婦が調査に取り掛かる。
 ストーリーは実話に基づき、ウォーレン夫妻の心霊調査方法は科学的で、家の中にカメラやマイクを設置するあたりは小野不由美のゴーストハントシリーズを連想します。
 ウォーレン夫妻のうち奥様の方はまだご存命ですし、日本にもやってきて炭鉱で亡くなった方々(これも、小野不由美の「残穢」にあったヤツなんだろうか?)のお祓いをしたことがあるそうです。ウォーレン夫妻のゴーストハントの続編をやるなら、ぜひとも来日エピソードをやってもらいたいものです。
 実話に基づくだけあって、映像は派手さを抑え、その代り巧妙さを感じさせます。悪魔人形のビジュアルが異様に不気味で。
 部屋の隅の暗がりを、「誰かがいる」と言って子供が指差す。
 ただそれだけの映像で、怖い。見る人の恐怖イメージを、喚起させます。

「abさんご」2013/11/18 00:44

 平成24年度下半期の、芥川賞受賞作。
 横書き、漢字を避けてわざわざ平仮名表記、一語の名詞ですむモノを回りくどく表現(たとえば「死者が年に一ど帰ってくると言いつたえる三昼夜」って、何のことかと思ったら「お盆」のことでした)・・・・・
 そんな感じで、文字数をたくさん費やし詳細に説明されていながら、ごく簡単な事象が読解しづらく、薄ぼんやりしたイメージになってしまう小説です。
 読みにくさのあまり最初の数行で一度本を置いたくらいですが、幸いなことに、思ったよりも早くこの文体には慣れました。
 慣れなかったのは、語られている内容の方でした。
 主人公(たぶん女性)が、自分の幼少期や親(おそらく父親)の死について、断片的な回想を述べています。述べているっていうか、夢に見ているっていうか、ぼやぼやと漂わせているというか。
 輪郭のはっきりしない、印象派絵画のようです。人の記憶って、そんなものかもしれません。
 印象が甘ったるいのは、特異な文体のせいだと思います。
 しかしきちんと読めば、語り手の思考は意外と冷静で論理的で、なんか冷たいのです。
 びっくりするほど体温の感じられない、好きになれない主人公でした。

「もう一人の息子」2013/11/18 22:36

 赤ん坊取り違え問題。っていうと、最近の「そして父になる」とネタがかぶりますが、大きな違いは、問題発覚時に赤子は18歳まで成長していることと、彼らの一方はイスラエル人で、もう一方がパレスチナ人であることです。
 でも、いち早く仲良くなっていったのが二人の母親だったってのは、「そして父になる」とおんなじです。母親にとっては、自分の産んだ子供も長年育ててきた子供もどっちもカワイイ。そんな感覚は、万国共通なのでしょうか。
 しかし、お国事情が違うと、人の感じることも違ってきます。「ユダヤ民族ではない」ことでアイデンティティー喪失してしまったり。「土地を奪った奴ら」と知られて、仲良しだった兄貴からいきなり冷たい態度をとられたり。
 ちゃんと現地でロケをしてスタッフもイスラエルやパレスチナの人たちが含まれますが、フランス映画です。
 たいへん無茶でハードな設定なのに、レヴィ監督は、割と穏やかな作品にしてしまいました。フランス人女性っぽいっていうか。
 もしも、家族だけじゃなくて隣近所友人にも「正体」が知られてしまったりしたらエライことになりそうですが、そんな破滅的な展開はなく、もっと地味で淡々として、しかし影のように2組の家族から離れない現実、として描かれます。
 二人の息子たちは、もちろん葛藤はあるのですが、どちらもけっこう物わかりが良いです。自分のもう一つの家族、もうひとりの自分を、きちんと受け止めたうえで、今の自分を生きて行こうとします。
 そもそもユダヤ民族とアラブ民族、容貌からもっと早く異民族ってことに気付かないのもなのか、って思っていたのですが。・・・・どちらも、同じ東洋系で、うんと違うことはないのだと、主張しているのか。

「タイタス・アンドロニカス」2013/11/21 11:47

 漫画版「サイコパス」の三巻を読んでいたら、無性に気になって、図書館から借りてきたシェイクスピア戯曲。
 漫画では、少女の体を切り刻む殺人娘を、この戯曲に登場するタモーラ女王にたとえたり、主人公の娘のラヴィニアにたとえたりと、統一感のない引用の仕方をしています。
 最後の締めセリフの突き放しきった感じが、とても効果的です。

 これはシェイクスピア作品ではないという説もあったそうで、読んでみたら、それも納得。
 内容がグロテスクで、残酷すぎて。
 主人公・タイタスさんの単純さや嘆きっぷりはシェイクスピア悲劇っぽいのですが、悪人たちの描かれようが、猛烈に「悪」なのです。
 悪人であっても、どこか愛嬌があったり、人間の野心や嫉妬心なんかにスポットを当てて人物像がつくられていることが多いのですが、ところが、この作品ではそうした要素が薄くて、反吐が出るような悪そのものを描くために悪人像を作ったとしか思えません。
 白水Uブックス、小田島雄志氏による、けっこう簡素な訳文のために極端な印象になるのかもしれませんが。
 主人公が可哀想な目に合う悲劇作品は世に多くありますが、虐げられる主人公たちよりも、虐げる側の悪人の方がこれほど印象的な作品も珍しいです。

「ハンナ・アーレント」2013/11/28 00:23

ただ、命令に従っただけ。

 残念だったのは、ちょっと、有名になりすぎたことでしょうか。
 元々、「イェルサレムのアイヒマン」っていったら初歩の心理学講義でも聴いたことがあるくらい名高い人間論ですし。
 おまけに、本作は東京の映画館で大入りになったってことで話題になり、あちこちで映画評が氾濫して。
 前情報が多すぎて、見所とかあらかじめ告知されてしまうとちょっと興が削がれるっていうか新鮮な驚きを欠いてしまいます。
 それでも、この映画が今日の我が国でウケたのは、よく分かります。
 多くのユダヤ人を死地に追いやった極悪人として裁かれたアイヒマン。実際のイェルサレムでの裁判映像が使われていて、要するにアイヒマンさんは「ご本人が出演!」という映画です。歴史の実録、本物の威力は凄いです。
 非道な行いをした彼は、悪魔のような人物であった。と、誰もがそう思っていたのですが、裁判を見学したユダヤ人哲学者・ハンナは、違和感を覚えます。
 アイヒマンは、ただ法と命令に従っただけの、小役人。世紀の大悪は、ただの凡庸な人間たちが、自らの思考を停止してしまったがために生まれてしまった。
 そんな悲しい人間の性質の対極として、ハンナは描かれています。「アイヒマンの非人間性」「ユダヤ人は例外なく被害者」といった固定観念にとらわれることなく、冷静に事実を見つめて思考する人。
 そんな彼女ですから、刃のように切れ者で冷徹なコンピューターのような人物をイメージしていたのですが、そうではありませんでした。夫とラブラブで、友達に囲まれて笑って、収容所の記憶に瞳を曇らせることも。
 思考しないって、どういうことでしょうか。
 幼児を何日も放置しておいて「死んでしまう」とは考えない母親がいました。
 どう考えても違う食材を使っていながら「偽装とは思わなかった」とか。
 案外、思考の停止ってどこにでも転がっているような気がします。それが極まってくると、「モラルの判断不能」から「人間の停止」にまで転がり落ちてしまう。
 しかしその一方で、周囲からバッシングを受けても自らの思考を放棄しなかったヒロインに、もう一つの人間の姿、人間の希望を見出せる。そういう映画だと思いました。